非実在成年の殺人被害が全然議論されていない件について

今回騒がれた東京都が定例議会に提出した「青少年健全育成条例」の改正案について

まず、私の立ち位置について。
私は児童に対して触れるべき情報の順を示す必要は有ると思っていますから、条例については(権力側が社会のモラルを操作する事についてはある種の気持ち悪さがありますが)、必要であると思ってます。(都民では無いですが。)
しかし、今回の改正案には反対です。条例を改正する前にすべき事(ゾーンニング等)があり、その徹底がなされていないと感じる事と、規制すべき内容の議論が尽きていないから*1です。

今回の児童ポルノ規制騒ぎについては、推進派がごり押ししすぎている感があります。非実在青少年の被害など言い出すに至っては、脱線も良いところでしょう。寧ろ、改正案をつぶす為の策とも思えてくる程です。

非実在青少年の性被害が議論の中心となってしまいましたが、性被害を問題にするならば、殺人の方が罪は重いのですから、非実在人間の殺人被害を先に規制すべきなのではないでしょうか?アニメ化もされた肉体は小学生、実年齢は高校生の探偵が活躍するマンガなど、毎回殺人が起こってます。規制推進派の「人が殺されるなんて酷い!」との意見が見つからないのが私には不思議でなりません。

悪意の存在を隠すべきか、否か

そもそも物語りの「効用」とはなんでしょうか?私は効用の一つに仮想体験があると思っています。人はそう簡単に他人の立場になることはできません。他人の立場に立てないのならば、その人の思いなど想像できる筈もありません。ましてや犯罪被害に陥るような、又は犯罪を犯さなければならない処まで追い詰められるような事はそうそうありません。そんな特殊な体験をする事が出来るのが「物語」の「効用」の一つではないでしょうか?

「べからず集」を作り、そのルールを守れば安全に生きていけると云うのは幻想でしかありません。本来の子育ては1匹でも生きて行ける技量を身に付けさせる事でしょう。現代社会に生きて行く人間であるのなら、守るべきモラルとその判断基準を身に付けるべきですし、そこから逸脱した「悪」から身を守る方法も知っておかねばならないでしょう。守るべきモラルとその判断基準は道徳教育という方法が確立されています。しかし、悪意から身を守る方法、さらには他人へ悪意を向けない方法はどうやって身に付ければ良いのでしょう?ここに親が子供に見せたくない物語の存在意義があるのではないでしょうか?

目を背けたくなるような事は、目を背ければなくなる訳ではありません。世の中の「悪」と戦わねばならないのならば、「悪」がどんな物であるかを覆い隠すのは得策ではないでしょう。

*1:究極的には、禁欲主義と快楽主義のどちらが幸せな人生なのかまで含めて議論されるべき話だと思う。